ELICA's IKI

投稿者: ELICA MIWA

  • 乗馬 Day 55: 軽速歩スピードアップ

    2023年6月21日 夏至。ダンツキャストの脚が治ったようで、私のパートナーとして戻ってきたよ。

    暑くなってきたので、日陰のできる夕方からのレッスン。午前中に「働いた」せいでダンツくんのお目目はしょぼしょぼです。

    常歩スタート

    安澤先生からお尻をペチペチされてようやく歩き出すという。・・・つまり、私の指示で歩き出したわけではないのだ。とほほ涙

    Spur をつける

    spur スパー、拍車。シェイクスピアのかっこいいキャラクターのなかにホットスパーという名前の青年がいてね。Hot Spur 。熱い拍車、という名前ですよ。血気盛んで、がんがんに馬を飛ばす様子が名前から見て取れます。もちろん本名ではありません。本名はヘンリーです。王太子のヘンリーと戦う敵方なのだが、めちゃくちゃかっこいいのだ。

    それはともかく、今日はゴム長靴ではなく、本物の乗馬靴だったが、安澤先生が拍車を持ってきた。

    「拍車はなぜつけますか?」

    「馬に、ちょっと気づかせるため」

    だそうで。蹴るのではなく、お腹に触る程度にちょんちょんするのだそうだ。その加減が難しい。当たっているのかどうかわからぬ。ブーツとその中の自分の足の感覚をもっと敏感にせねば。

    軽速歩のスタート

    常歩を右に2周、左手前から左に1周したところで、軽速歩へ。

    「手綱をピンと張って」

    そういえば、「手綱をぷらんとさせるとのんびりするから」とこのクラブでは教わっている。

    (もっともダンツくんは、ノリに乗ってくると、手綱プランでもとっとと走り出すんだけど・・・)

    そうか、手綱を一旦ぴっと張ると、馬にとっての「よーい」になるのかもしれぬ。手綱を張るタイミングと両脚を当てるタイミングがバラバラでちょっとかわいそうなことをしてしまったが、ダンツくんが例によって1周で怠けてくれるので、毎回、号令をかけ直さねばならぬ。そのうちに、手綱ピン! 両脚トン! の順番がわかってきたら、わりとスムーズに速歩してくれるようになった。

    (いやいや、乗ってくるとダンツくんは勝手に速歩を始めるから、ただそれだけのことだったのかもしれぬ。むー)

    軽速歩のスピードアップ

    今日は実は駈歩をせずに、ずっと速歩、しかも正反動さえせずに、軽速歩のみだったのだ。しかし!乗ってきたダンツくんがどんどんスピードアップして、かなり速いリズムの速歩になっていく。

    えーと、それまでは、メトロノームで90くらいで上下していた。
    跳ね上がって1、鞍に落ちて1、の二拍子。

    が、今日はどんどん速くなっていって、最後には、メトロノームで130くらいまで行ったのです! 

    上がって1、鞍で1、の二拍子で。以前は、速くなっていくと、運動音痴・筋力不足の私は、上がる下がるの運動がもうわけわからなくなってしまって、とても無理だったんですね。

    ところが今日は、この速いリズムでトントンと、なんだか気分的に「乗りこなす」ことができて、めちゃくちゃ楽しみました。

    メトロノーム130くらいだと、ちょうど、海外映画で18世紀の上流階級の男性が乗馬散歩の最中に「どうした?」的な感じで恋人の乗っている馬のところに戻ってくるときみたいな感じ。(は?ますますわからん 汗 ですよね)

    いずれにせよ、なんか映画の中で乗っているような気分を味わっておりました。

    「乗り方が上手くなったからね、ダンツくんも気持ちよく動いたんだよ」

    と、安澤先生。

    ありがとうございます〜〜〜。

    最後に手綱ぷら〜んで常歩。

    せっかく2週間前にゼロファイターでできた正反動をやってみるつもりできたけれど、ダンツくんの軽速歩のペースが上がってきたときに、いやこれは軽速歩のペースアップで行こう、と、思い切って正反動に移るのをやめて良かった。全く新しい体験と学びがあったもの。よっしゃ〜。

    ダンツくんと交流が深まる

    洗蹄場でダンツくんを拭いてあげる。2週間前にWさんから、「お尻の穴や性器まで本当は全部きちんと拭くんだよ。でも気安くさせてくれる馬はいないから、気をつけて」と言われていました。なので、かなり注意深く、尻尾を持ち上げてやってみましたところ、ダンツくん、のんびりしています。お腹の下もちゃんと拭けました。安心して任せてくれているのがわかってとっても嬉しい。

    拭き終わると、これまでは割と頭を上げて上から見下ろす感じで私を見ていたのですが、今日はずっと頭が下で、すり〜っと寄ってきてくれた。なんかもう「きみかわい〜ね〜」炸裂です。恒例の自撮りタイムも、首を下げて肩の方に寄ってきてすりすりしてくれて、本当に可愛い!

    次回は今日の軽速歩と前回の正反動を生かして、良い乗馬ができるといいな。

    今日もありがとうございました。

  • 茶道奮闘記1基礎の基礎

    茶道奮闘記1基礎の基礎

    三輪えり花、お茶を習い始めました。

    欧米への憧れの強い家庭で育ち、また私の性格的な理由により、礼儀作法第一の和物はとても苦手で常に避けてきたのです。が、今年(2023年)に入り、「あ、やりたい」と思い、姉が茶道で師事している麗扇会というお教室では日舞や書道も教えているというので、やにわに通い始めました。先月まで、日舞の「祇園小唄」が一曲、どうにかこうにか上がったところ、先生が「茶道は全てに通じるからぜひ」と強く勧められるため、やってみることにしたのです。書いておかないと忘れるので、このブログで茶道奮闘記としてメモを残していこうと思います。乗馬に書道に日舞に茶道、クラシック歌唱とフランス語と、習い事三昧ができるのは本当に恵まれている。そもそも「やりたい」は宇宙の声だと私は信じているのです。「やりたい」は宇宙が「君、叶えてね」という信号。なので、できる限り、やる。応援よろしくお願いします。

    記念すべき第一回は、2023年6月9日でした。

    憶えていることを書き出す。記憶違いのところもあるかもしれないので、読者さんはこれを参考にしないようにね。

    用意するもの

    懐紙(かいし)、茶道用の扇子(せんす)、帛紗(ふくさ)、白足袋(しろたび)。

    物は帯にはさんだり、和服の胸の打ち合わせに仕まうので、和服着用が必須です。が、私はお教室の二部式着物をお借りし、腰紐を帯の上場あたりで結んで帯代わりとしています。でも腰紐だと心許ないので、次回は伊達締め(だてじめ)を持っていこうかな。

    アクセサリーと時計は必ず外すこと。

    正座のお辞儀:真行草(しんぎょうそう)

    正座して、首を伸ばし、股関節から45度前傾する。それより深くしない。

    指をつく量で、お辞儀の正式さ加減が変わり、それを正式な順に、真・行・草 と呼ぶ。

    真のお辞儀は、手のひらまで完全に付け、できるだけボディに近いところに置いて、お辞儀。

    行のお辞儀は、指の第2関節(手のひらを浮かすとちょうど第2関節まで床に着いているはず)までで、お辞儀。

    草のお辞儀は、指先から第一関節までで、お辞儀。

    どのレベルのお辞儀にするかは、まず相手がどのお辞儀をしてくるかを観察し、それに合わせる。

    畳の歩き方、立ち方、座り方、方向転換

    お茶室への入り口のことを「躙口(にじりぐち)」と呼ぶ。

    躙口の手前に扇子を、持ち手を右側にし、紙部分が相手に見えるように、つまり親骨(おやぼね)が床と上に来るように置く。真のお辞儀(お稽古開始なので先生に敬意を表す)。

    襖の敷居(しきい)の部屋の中へ、扇子をできるだけ遠くに置く。正座を崩さず、立ち上がらず、両手をぐーにして体の両脇の床に突き、正座のままのボディをぐぐいっと部屋の中の扇子の手前に運ぶ。この動きを「にじる」と呼ぶ。一回で体を部屋に入れたら、扇子を先生のいらっしゃる左斜め前に右手で置き直し、にじりで方向を変え、ご挨拶。

    「本日は、〇〇のお稽古をよろしくお願いいたします」で真のお辞儀。言いながら頭を下げる。

    このあと、立ち上がって方向転換をして、お客用の位置へ移動する。

    立ち上がるときは、正座から両踵にお尻を載せる。左膝を浮かせる。立ち上がる。(演技の「立ち上がる・座る」と全く同じ。体と頭と骨の仕組みのバランスを使えばスムーズ)

    手は、何かを持っていない限り常に和服の前の太ももあたりに自然に付けておく。

    方向転換は、左足を後ろへ引きながら内股に。それから右足を畳の縁(へり)ぎりぎりのところに爪先がくるように右へ向ける。それで体は180度回ったので、左足で畳の縁をまたぎ、半畳を二歩で進む。

    座る時は、両足のかかとをつけ、そのまま膝と股関節と足首を折っていく。座った時に両膝の間が握り拳ひとつ分空いているように座り切る時に調整する。なるほど、男の座り方なのだな。

    お客として座るときは、畳の縁から畳の目七つ分くらいのところに膝が来るように。扇子は、背後に置く。正客がいるときは、その方に扇子の先が向くように。

    帛紗

    む〜。胸にしまっているときは、帯を結ぶ時と同じで、輪が下にきて、その輪を右手に載せるつもりで、親指を上にして胸元に持ってくると、親指と人差し指で引き出せるよ。で? どないすんのや〜。とにかく三角にする。親指と人差し指で三角の両端を持ったら、帛紗の向こう側にあった残りの3本指を帛紗のこっち側に持ってきてあらためて挟む。左手を帯に伏せていくつもりで腋へ手首を持っていく。ついでに右腕は体の前で肘挨拶をする感じの位置にくるから、肘と一の腕が直角になるように。つまり、左手は「小さい前習え」で、それとボディで四角形の二辺を作っているとして、右腕の一の腕と二の腕で残りの二辺を作る感じ。そのあと、どうにかして縦三角になった布から左手を離し、右手でつまんでいるところから下へスライドさせながらタラタラしている三角部分を握ると、なぜか三角もう一段折った感じになる。そしたら左の親指で下の方で押さえて右手を被せていくと、なんだかくるくると丸くなる。右手人差し指で真ん中に横線を書くようにして滑らせて窪みを作ったら、小さな蛇腹に折り畳まれた感じになっている。それからそれをどうするかは全く記憶にない。

    一日目はこうして終了です。どわ〜

  • ロミオ里帰りとアテネとBMW

    ロミオ里帰りとアテネとBMW

    今日はイベント盛りだくさんの1日でした。

    イタリアングレイハウンド犬 Romeo の生まれ故郷の犬舎で新しくイタグレの子犬が生まれたとFB記事で知り、 Romeo も7月1日で16歳になるし、一念発起して里帰りを決行。

    会いに連れて行きますとずっと言いながら、往復6時間がどうにも大変で実行に移せていなかったのだ。

    パパとRomeo をBMW 320d に乗せて、茨城県利根川の行方(なめかた)近くにある北浦の北端にある、ブリーダー佐伯利津子さんの新犬舎へ。

    途中の鹿島神宮前駅の道の駅で巻き寿司を食べました。

    利津子さん宅にお邪魔するも、Romeo は一人では家に上がろうとしなかった。知らないところへ入りたくなかったのかしらね。私が入ってやっと入ってきた。けれど、パパが庭にいるので心配でたまらず、しばらくぴょこぴょこ耳をパタパタさせながら外を気にする。

    やっと落ち着いて利津子さんと記念写真

    猫のさぶちゃんは半身でのぞいています

    そしていよいよチビベビーたちを見せてもらいます。

    ママはチェリーさん。小さめ、チワワ系顔のお嬢さんです。細いけれどツヤツヤして元気。ベビーは全部で4匹。男1、女3。お鼻に筋のある、この写真だと一番上にいる女の子は引き取り手が決まったそうです。

    Romeo は少し匂いを嗅ぐけれど、興味無し。どうでもよさそうです。

    2時間くらいもコーヒーをいただきながらいろんなお話をしつつ、ベビーちゃんたちは一旦ケージへ。すると、なぜかある子がキャンキャンと声を出して吠えて、扉を手で開けようとする。利津子さんが開けてあげると、まだまともに歩けないほどのホロホロヘロヘロの足取りで、一歩ずつ震わせながらケージから出てきて私の手に擦り寄ってきて、脚のあいだに入ってきて、ちょこなんとお座りしてしまった。あ〜これはもうこの子に選ばれてしまったな。これは運命に逆らえない。

    アテネ Athena とその場で名付けました。ジュリエットにすると、ロミオがいなくなったら可哀想なので、イタリアングレイハウンドだけど、ギリシャの女神の名前にしました。

    手のひらに収まってしまう小ささ。耳たぶなんか小指の爪くらいのがパタパタついている。尻尾はボールペンの芯みたい。お手手が大きいから大きくなるんじゃないかな。ちなみにRomeoはイタグレの通常サイズの150%増しくらいどでかい犬です。

    生後70日でお迎えするので、7月20日ごろ、また来ます。

    15分くらいで電池切れすると言われるベビーたち。アテネもまた潜り込んであっという間にすやすや。

    この先どうなるかを心配すると何もできなくなる。どうにかなるさ、どうにかするさ、やってきたものは喜んで受け入れれば花が咲く。

    そして帰り道、愛車が10万キロを突破。今日は自宅から犬舎まで片道120kmの旅。今日も調子良く走ってくれた。ありがとね、BMくん。

    ロミオ里帰り、アテネくんお迎え決定、BMW10万キロ突破。幸せもりだくさんの1日でした。

    WANWANWANの佐伯利津子ブリーダー。自宅で丁寧に育てて、母犬に無理をさせず、のびのびと走り回らせて育てている素晴らしいブリーダーさんです。

  • 乗馬 Day 54: 初めてできた正反動 sitting trot

    乗馬 Day 54: 初めてできた正反動 sitting trot

    2023年6月7日水曜日アン乗馬クラブへ。

    今日のパートナーはゼロファイターくん。ダンツキャストは右脚を傷めたらしくお休みです。ダンツくんに挨拶しにいくと、彼は馬房でもぐもぐ頬張りながら「俺、今日は休みっすけど」という顔をしていました。

    その隣にフライトエンジェル、その隣にゼロファイターがいます。ゼロくんはダンツくんと同じ牧場から来た同い年の従兄弟くん。

    乗り込みから常歩

    乗り込みはだいぶスムーズにできるようになりました。もちろんまだ一人では無理です。向こう側で先生が馬を押さえてくださり、左足を鎧に嵌めるのにもぞもぞと時間がかかるのです。とほほ。

    最初の発進はやはり言うことを聞いてくれず、先生にお尻をぺちっとされて仕方なく歩き出したゼロくん。常歩で一周。私は坐骨方向転換。それにしても同じ常歩でも、なんだかずっしりずっしりと進みます。「この馬は重い」という感想を読むことがありましたが、その意味が初めてわかりました。なるほど、馬は進んでくれているのだが、なんだかとにかく重い、妙な感じです。

    軽速歩と正反動

    posting trot と sitting trot です。軽速歩は軽快によく進んでくれました。ダンツくん同様、入り口付近で止まります。それから、安澤先生がちょっと姿を消すと、横目で追いかけて心配そうにします。おいおい、心配なのはこっちですよ。前回も軽速歩はなかなかよくできました。ゼロくんでも大丈夫です。

    そして正反動 sitting trot。この1週間、バランスボール65cm に両足を浮かせて乗る練習と、坐骨を前後させる練習をしていました。その成果あってか、なんと正反動、一度もお尻が鞍から離れることなく、手綱の両手も下の方で安定させたまま、手綱に頼ったりせずに馬場を大きく1周することができました! 1周で終わるのは、ゼロくんが入り口付近で止まってしまうためで、スタート再開しては何度も繰り返して、できました。嬉しい! でもゼロくんは、上下の跳ね上がりが多分緩やかです。ダンツくんになったらまた跳ね上がってしまうかもしれないし、エンジェルになったらそれどころじゃないかもしれない。でもそれでも後傾姿勢をキープできてお尻と鞍を一体化させる感覚で乗れたのは進歩! バランスボール練習を続けよう。

    初めての馬だったせいだろうか、駈歩練習は無し。でも正反動がとことんできてとてもよかった。暑くなってきたが、16時を過ぎると全体が木陰になる。朝早くか16時過ぎかが夏の乗り方になるようだ。

    毛がふさふさのゼロファイター。乗り終わると鞍やはらおびまわりが汗びっしょり。ありがとね。水を持っていくと、唇を震わせて飲みたそうにしているのに、飲まない。「甘いのを入れて欲しいんじゃない?」とWさん。粉末スポーツ飲料を入れてあげると、意地汚いほどに飲んだ。わがままちゃん。そして今度は首元まで汗びっしょりに。濡れタオルでしっかり全部拭いてあげて、ブラッシングもしてあげる。「こんなに丁寧にブラッシングしてくれる人、いないんじゃない?」とWさんたち。よかったね、ゼロちゃん。そして人参をあげるところを動画に撮って、馬房へ連れて行って、ダンツくんとエンジェルにも藁をあげて、おしまい。

  • アイルランド50代女一人旅 9:レディ・グレゴリーというすごい人

    アイルランド50代女一人旅 9:レディ・グレゴリーというすごい人

    Carrygerry Country House という素晴らしい宿をチェックアウトし、レディ・グレゴリーが結婚してからの一生を過ごしたところへ向かい、彼女の戯曲の世界の風景を探します。


    Carrygerry Country House についてはこちらの記事

    アイルランド50代女一人旅8:上流階級のひととき

    レディ・グレゴリーとは

    Isabella Augusta, Lady Gregory
    オーガスタは1852年にアイルランド国ゴールウェイ郡のロクスバラ Roxborough の裕福な家庭に生まれ、生粋のアイルランド人で、英語とは全く違う言語であるアイルランド語(アイリッシュ)話者の乳母に育てられます。

    その後、セイロン総督を退任して帰国したサー・ウィリアム・ヘンリー・グレゴリーと結婚。二人はロンドンの社交会によく顔を出し、グレゴリーは若いアイルランドの芸術家、文筆家らを支援します。

    アイリッシュの乳母の影響で、オーガスタ自身はイングランドの影響を受ける前のアイリッシュ言語文化に興味をもち、昔話を掘り起こしたり、古来の暮らしを研究したりしました。

    そして、イングランドからの精神的独立は芸術の独立から始まるとして、ダブリンにアビイ劇場を設立します。

    それまで演劇芸術は、上流階級のもの、つまりイングランド系貴族のものとされ、アイルランドで上演されるものも全てイングランド系の人々のための娯楽でした。

    オーガスタはそれを変えようとしてWBイエイツらと共に「アイルランド人による、アイルランド人のための、アイルランドの演劇」(つまり新作)を上演する専用の劇場を作ったのです。そこから多くの劇作家を輩出しました。


    彼女は資金援助しただけのように思われがちですが、演劇はイングランド系の上流階級の者だとして劇場へ足を運びそうになかった労働者階級のアイリッシュたちを呼び込むため、彼らのための作品をたくさん書き、次々と上演しました。それらはアイリッシュの農民たちの日々の暮らしをユーモアで暖かくくるみ、彼らが我が事として喜び、楽しみ、共感できるものばかりでした。そのうえ、劇場に座るという習慣のなかった彼らのために、どれも30分程度で観られるものばかりだったのです。それらが功を奏し、アベイ劇場は当初から大入満員で、アイルランドに演劇を根付かせたのです。

    (アイルランド人劇作家といえば、古くは18世紀のオリヴァー・ゴールドスミス、19世紀のオスカー・ワイルドが有名ですが、彼らはロンドンの社交会のために戯曲を書きました。)

    なぜ私はレディ・グレゴリーを知らなかったのか?

    と、いうことをですね、私は、今回、初めて知ったのです。無知でした・・・。

    2022年の12月に、国際演劇協会(UNESCO傘下の世界的団体)日本センターとしてプーチン禍においてなにか上演しなくては、との思いに駆られ、そういえばアイルランドもイングランドとの長年の被支配と搾取の歴史でウクライナとロシアの関係と似ているな、と思いいたり、何か過去に遡ってまだ日本で発掘されていないものはないかと探していてレディ・グレゴリーに行き当たったのでした。

    イエイツやシング、オケイシーやベケットの名前はある程度演劇に馴染んだ日本人なら知っているかもしれませんが、グレゴリー夫人の名は、どれほどの人が知っているかしら? 大学研究者たちも劇評価たちも男性が多いので、つい男性劇作家に目が行ってしまうのでは?

    この人を知っている?とアイルランド在住のアイルランド演劇の専門家に聞くと、初めて「レディ・グレゴリーはアイルランド演劇のルネサンスを作った人だよ。アイルランド演劇の母とも言われる」と聞くことができたのでした。

    レディ・グレゴリーの土地を巡る というブログ記事では彼女の生家、救貧院、農地の暮らしなどを観てまわりました。今回は、結婚後の彼女の暮らし、アイルランド演劇の母となって行った過程をみていきましょう。

    エニス Ennis

    シャノン川より西側の幹線道路を北上してエニス Ennis へ向かいます。時間があればリムリックに戻って、アイルランドの昔ながらの暮らしが体験型でわかる Bunratty Folk Park へ行きたいのも山々なのですが、昔ながらの農家はInishmoreで見られそうなのと、そこに寄っていたらメインの目的であるグレゴリーさんの足跡(そくせき)を追うのが疎かになってしまう時間になるので、割愛。

    途中、Clare Abbey を通り抜けました。屋根部分がね、落ちてしまっているのは残念です。
    in courtesy of map&photo by Google Map

    こうしたものもアレですかね、イギリスとの宗教戦争でやられたのでしょうか。アイルランドは第二次世界大戦には参加していないので、爆撃でやられたはずはないし。

    エニスの街に入ります。見どころは エニス修道院(跡)
    時間もないので、残念ですが外から見るだけで済ませました。(入場料あり)
    in courtesy of Map&photo by Google Map

    Coole Park

    Ennis を通過したらいよいよクールパーク Coole Park へ向かいます。これこそ、レディ・グレゴリーが結婚してから亡くなるまでざっと愛して住んでいた屋敷。その広大な屋敷を彼女は亡くなる際にアイルランド国に寄付し、それ故ここは公園となったのです。住んでいた屋敷は取り壊され、当時の厩舎が今、受付と博物館になっています。(どんだけ広い厩舎!!)

    この公園は、基本的には、自然公園 nature reserve なので、自然観察と散策をするところです。ですが、私はLady Gregory の人生について知りたかったので、受付で、「数ヶ月後に、日本でレディ・グレゴリーの作品を上演します。それで彼女がどんな人でどんな活動をしていたのか、調べているのです」と言うと、ものすごく喜んでくれて、レディ・グレゴリーの博物館エリアがあるから、ぜひ、と案内してくれました。

    彼女が生まれたのは19世紀の半ば。このお屋敷は彼女が嫁いできた先のものです。お屋敷自体は1770年からあるのです!
    写真の技術が生まれた19世紀後半からの、当時の貴族の庭遊びの様子が色褪せた写真パネルとして展示されています。私は19世紀の文学が大好きなので、ワクワクします。私はたしかにイギリスに住んでいましたし、一般公開されている貴族のお城や邸宅や庭をかなり訪れましたが、どちらかというと室内の展示がメインで、庭で遊ぶ子どもたちや庭師の様子などは今回、初めて見た気がします(たとえ写真でも)。


    彼女の胸像ですね。


    これは夫のSir William Gregory.  この時代はアイルランドはまだバリバリ大英帝国の植民地で・・・いえイギリス側はアイルランドを「植民地」とは捉えていなかったかもしれません。多くの裕福なアイルランド人はロンドンの社交界に出入りしていましたし。このサー・グレゴリーは、大英帝国の植民地そのものであったセイロン(インド洋)の総督を長く務めました。彼は退役してアイルランドに帰国してから、若いオーガスタ(レディ・グレゴリーの名前)に出会ったのです。かなりの年の差婚でしたが、二人ともとても仲が良かったとのことです。(オーガスタ28歳、ウィリアム63歳)


    子供部屋。
    真っ黒い鉄製の柵は19世紀英国の特徴です。暖炉や外履き、寝巻きを壁にフック掛けしていたことなどがわかりますね。

    貴族の女主人が私邸で開く文芸サロンが大流行りのロンドン社交界でレディ・グレゴリーも活躍します。そこに現は、劇作家ウィリアム・バトラー・イエイツ、詩人ロード・テニスン、溺れるオフィーリアの絵で有名なジョン・エヴェレット・ミレー、小説家ジェームズ・ジョイス、劇作家ジョン・ミリントン・シンジ、ジョージ・バーナード・ショー、ショーン・オケーシーらがいました。ことに若い劇作家は彼女の紹介で社交界にデビューできたおかげで注目を浴び、世界的有名人になったりしたのです。

    バーナード・ショーはこの屋敷にしょっちゅう来ていたひとりで、売り出され始めた映写機で自分が冗談を子供達に言っているところを動画に撮影したりしていました。

    彼女の書斎を再現。壁紙、カーテン、背後の鏡、ギリシャ風彫刻、ランプ、壺、と19世紀英国貴族の書斎そのものです。テーブルの上には実際に使ったものたち。彼女の眼鏡!

    彼女は知人の署名を集めるのが趣味で、扇がサイン帳の代わりでした。錚々たる名前が連なっています。図解が並んでいて、誰のサインなのかわかるようになっています。
    ヘンリー・ジェームズ、トマス・ハーディ、もちろんジョージ・バーナード・ショー、JMシング、ショーン・オケイシー、WBイエイツ。『ジャングルブック』のキプリングの名前も見えます。
    それにアメリカから、『トム・ソーヤー』を書いたマーク・トウェイン、大統領のセオドア・ルーズベルト!
    また演劇界で世界中を称賛の嵐に巻き込んだ大女優エレン・テリーも。
    ものすごい交友録ですね。私も扇に名前を書いてもらおうかな。(将来の大物に期待して)


    森にも、サイン帳代わりの大木が! 成長してしまって掘られたサインはもうほとんどわからなくなっているのですが、オスカー・ワイルドの名前も見えるそうです。この木だと思うんだけど・・・。 まだかろうじて字が読めるときにレプリカを作成したせいで、写真右がそれです。

    博物館でいろいろな思いに浸って、出てくると、さっきの受付の人が、特別にレディ・グレゴリーについての記録映像を見せてあげると、言ってくださり、まあ、お茶でも飲みながら、とミルクティーまで用意してくれて、映写室を私のために開けてくれて、レディ・グレゴリーについての映像を見せてくれました。なんて素晴らしい人たち!ありがとうございます!!

    さらに、日本では手に入らなかった情報をくれました。

    なんと、この近くに、レディ・グレゴリー博物館があると言うのです。このクール・パークとは別に、レディ・グレゴリーのものだけを集めた博物館だから、ぜひ行ってみるといい、とのこと。

    というわけで、そこへ向かいました。グレゴリーのネットワークは強く早く、そこに到着した時にはクールパークから管理人に連絡が入っていて、よく来たよく来たと迎えてくれます。


    中はグレゴリー関連のものがぎっしり!

    レディ・グレゴリーは、アイルランドの本来の言葉である「アイルランド語」という、英語とは全く異なる言語を使う乳母に育てられました。そのため、早い時期からアイルランド語に興味を持っていたのです。大英帝国の植民地としてのアイルランドとイングランドを行き来し、このゴールウェイ州あたりのジャガイモ飢饉でアイルランド人が苦しむ姿や、救貧院を頻繁に訪れるうちに、アイルランド人はアイルランド語を取り戻すべきと考え、アイルランド語をアイルランド人に教える学校を自費で建てたのです。この博物館はその学校の建物を活用しています。

    当時の学校の様子がわかる展示室も。

    Lady Gregory はアイルランド演劇の基礎を築いた人なので、もちろんアイルランドの文学史・文芸史、女性史の中では欠かせない人物です。が、彼女が誕生に手を貸したアイルランドの男性劇作家たちの方が知名度が高く、彼女は半ば「ただの金持ちの演劇好き」程度と、あまりその真価を認めてこられなかった気がします。理由の一つは歴史を語ってきた人たちが男性であったことから、「女性」で「金持ち」の彼女よりも、「貧しいところから這い上がってきた男性作家」たちを、男性批評家や男性歴史家が注目したせいでしょう。ああ、文章が女性の手によって書かれてきたのなら、歴史はどれほどもっと豊かに女性の才能で彩られて描かれることでしょう!と、レディ・グレゴリーについて調べながら、世界の歴史が男性によって記述されてきたことに改めて思いを馳せるのでございます。

    最後に、この博物館の館主さんが、グレゴリーの手記を見せてくれました。このコロナ禍直前の2019年にニューヨークでグレゴリー特集の展覧会が開かれまして、それによると、イエイツのヒット作の多くは、彼女が一人で書いたものだとか。女性の名前では売れないので男性であるイエイツが書いたことにしようとなったそうな。イエイツ自身もそれを黙っていたので、いまだにそれらはイエイツ作となっています。どの作品がどれで、などのさらなる研究が待たれます。
    この博覧会についてのオンライン公開は英語で見ることができます。

    全て私一人で書いたもの

    さて、グレゴリーの絆はさらに紡がれていき、この博物館の館主さんは、「トール・ベリリーは行く予定? イエイツが家族で住んでいた古いお城。ぜひ行ってみて。連絡しとくから」

    というわけで、そちらへ向かいます。
    つづく・・・