シャノン川より西側の幹線道路を北上してエニス Ennis へ向かいます。時間があればリムリックに戻って、アイルランドの昔ながらの暮らしが体験型でわかる Bunratty Folk Park へ行きたいのも山々なのですが、昔ながらの農家はInishmoreで見られそうなのと、そこに寄っていたらメインの目的であるグレゴリーさんの足跡(そくせき)を追うのが疎かになってしまう時間になるので、割愛。
途中、Clare Abbey を通り抜けました。屋根部分がね、落ちてしまっているのは残念です。 in courtesy of map&photo by Google Map
エニスの街に入ります。見どころは エニス修道院(跡) 時間もないので、残念ですが外から見るだけで済ませました。(入場料あり) in courtesy of Map&photo by Google Map
Coole Park
Ennis を通過したらいよいよクールパーク Coole Park へ向かいます。これこそ、レディ・グレゴリーが結婚してから亡くなるまでざっと愛して住んでいた屋敷。その広大な屋敷を彼女は亡くなる際にアイルランド国に寄付し、それ故ここは公園となったのです。住んでいた屋敷は取り壊され、当時の厩舎が今、受付と博物館になっています。(どんだけ広い厩舎!!)
これは夫のSir William Gregory. この時代はアイルランドはまだバリバリ大英帝国の植民地で・・・いえイギリス側はアイルランドを「植民地」とは捉えていなかったかもしれません。多くの裕福なアイルランド人はロンドンの社交界に出入りしていましたし。このサー・グレゴリーは、大英帝国の植民地そのものであったセイロン(インド洋)の総督を長く務めました。彼は退役してアイルランドに帰国してから、若いオーガスタ(レディ・グレゴリーの名前)に出会ったのです。かなりの年の差婚でしたが、二人ともとても仲が良かったとのことです。(オーガスタ28歳、ウィリアム63歳)
Lady Gregory はアイルランド演劇の基礎を築いた人なので、もちろんアイルランドの文学史・文芸史、女性史の中では欠かせない人物です。が、彼女が誕生に手を貸したアイルランドの男性劇作家たちの方が知名度が高く、彼女は半ば「ただの金持ちの演劇好き」程度と、あまりその真価を認めてこられなかった気がします。理由の一つは歴史を語ってきた人たちが男性であったことから、「女性」で「金持ち」の彼女よりも、「貧しいところから這い上がってきた男性作家」たちを、男性批評家や男性歴史家が注目したせいでしょう。ああ、文章が女性の手によって書かれてきたのなら、歴史はどれほどもっと豊かに女性の才能で彩られて描かれることでしょう!と、レディ・グレゴリーについて調べながら、世界の歴史が男性によって記述されてきたことに改めて思いを馳せるのでございます。
その後、なぜか身体中の骨が痛くなってしまい、体全体がぎっくり腰のような症状で、押しても伸ばしても痛い、いや、それすらできず、一つの姿勢から別の姿勢に移るとき、全身を庇いながら、ギシギシと音を立てるような背骨や腰骨や首を抱えて、弱り果てました。口内炎も多数できてきたので、せめて口内炎だけでもなんとかしようと、ビタミンBを摂りました。アリナミンEX Plus です。そして痛みに耐えかねて横になっていると、あらあらまぁ! 背中の骨が一個ずつなんだか柔らかくなってふわっと落ちていく様な感覚に襲われまして、痛みが嘘の様に消えました。不思議に思って、アリナミンについて調べてみると、ホームページに、体内のめぐりを改善するビタミンBの威力が書いてあり、納得しました。いや〜、年だな、寝ているうちのぎっくり腰か、と思っていたのが、ただのビタミン不足! ビタミンすごい。
私の今を作ってくれた、Royal Academy of Dramatic Art の元校長 Nicholas Barter (ニックさん)がコロナ禍開けで来日! 有志がなにかワークショップを、と企画し、私が通訳をすることになりました。都内のおしゃれな大学のビジネス系大学院で、私の友人の俳優が教えている「芸術鑑賞」のクラスの学生たちです。このクラス、鑑賞というよりも、自分たちで作品作りをするのがメインという、とっても演劇意識の高い学生たちを育てていて、ワークショップはとても面白かった。私は久しぶりの通訳だったので、うまくできるかかなり心配していましたが、無事に務めを果たすことができました。ビジネス系の人たちは、私も明治大学で教えていますが、経営者たちが演劇を通じて相手を理解するコミュニケーションを身につけていくのはとても大切だと思います。