花の吉野・十津川・五條・飛鳥

長編 旅エッセイ

2023年三月末から4月にかけての週末奈良県の五條にある蔵の一棟貸しに滞在しました。演劇人の目から見たこの旅レポをお届けします。

今回の旅は、新作を描くためのリサーチ旅でもあります。明治維新後の都市化や商業化、空襲などに遭っていない古い街並みの残り奈良県の五條へ。ここは吉野山や高野山、十津川や天川への交通の要衝でありました。ですから、桜のシーズン以降は混雑するのではないかと、ぎりぎり桜の前に行こうと企てたのです。

が、2023年の桜が早かったのは、皆さんもすでにご存知の通り。おかげで、関西圏以外からの「予約してくる」観光客はまだおらず、なのにどこもかしこも満開の桜、というあり得ないほどラッキーな旅となりました。前置きはこれくらいにして、レッツゴー。

吉野川 五條あたり 3月30日(木)

3時起き、4時出発で5時半に羽田着。予約駐車場が満車だったため、一般駐車場がいっぱいにならないうちに停めたかったからです。ターミナル駐車場は、3階、4階、5階といっぱいで、やや焦った頃、6階のエレベーターホール前に空いていて、そこに入れました。8時半発の飛行機で関西空港へ向かいます。

空港でレンタカーして五條市へ。この道はかなり山の上の方を通っていまして、山の常緑樹の中に桜が点々と咲いているのがとてもとても美しく、わあ桜だよ!とワクワク感を盛り上げてくれます。いえ、それだけでもうウキウキでした。いわゆる点在という状態よりももっと数が多く、けれど人工的に植えたものではないので、密集することはなく。運転中でしたからなんら画像記録を残せなかったのですが、これを見るだけでも関空から五條(あるいは吉野、高野山方面)へ向かう価値があります。

お昼は吉野川流域の栄山寺(実は国宝)近くの「音無の淵」にかかる橋のたもとにある料理屋「よしの」で食事。
毎回ここでは川が見下ろせる窓辺に案内されるのですが、さすがに今日は混んでいて無理でした。ちょっと空いたら、後から来たお馴染みさんが案内されてしまって。でもここはお料理も美味しいし眺めはどの季節に来ても素晴らしいしおまけにリーズナブルなので、お勧めです。食事の後、満開の桜を吉野川の眺めをパチリ。

ここの主人が、いま、五條にある弁天山は桜が満開だから行くといい、と教えてくれて、予定になかったが尋ねることにした。おお、智辯学園か!甲子園で有名な。その名前の通り、弁天さまの山がその学園の目の前にある。山が全部桜でできている。見事でした。

五條市へ入り、幸いにも明治維新にも空襲にも取り残された古い町屋街へ入ります。ここには、蔵を改造した一棟貸しの宿泊施設があり、今回はそこに連泊です。元はお医者様のお屋敷だったとか。蔵だけではなく、離れの貸切もできます。鍵を受け取り、室内の使い方の説明を受けたら、あとはもう「自宅としてくつろいで暮らす」だけ。この蔵は、リノベーションした際に、どうも床下が空洞の音がするというので思い切って剥がしてみると、床下全体が隠し部屋になっていたんですって。お宝があるわけではなかったとのことです。あとから、五條市と天誅組について知ることになりますが、それを知った後に考えると、この床下はおそらく天誅の乱の際に天誅組のメンバーを匿ったのではないかと私は推察します。というわけでこの隠し部屋の床を1階とすることで、2階までの天井高をとても高くとることができたとのこと。この一階は、ダイニングキッチンリビングとなるのですが、玄関から入って下へ階段を少し下がり、つまり地面より下にいる状態になるわけです。なぜかとても落ち着きます。床暖房で足元もポカポカ、コーヒーメーカー、電子レンジ、大型テレビ、座り心地の良い椅子とガラステーブルで。ガラステーブルのおかげで空間がさらに広く見えるのも気に入りました。2階は寝室とバスルーム。蔵の中だというのに真新しいガラス張りの全自動お風呂とトイレ。お風呂で寝転がったところにも窓が付いているので、気持ちよさそうです。もちろんどこからも見えないしね。

家の真裏(または正面)には吉野川の広い河川敷。そこに1キロ近くにわたって巨大な鯉のぼりの列がたなびいています。お彼岸過ぎから端午の節句まで、ひと月以上はためかすのだそうです。そこを散歩しました。子供達が自然科学を学習できるよう、丸井円形の石で囲まれた学習ポイントがそこかしこにあり、河川敷の生き物や、河川や地理についてに話などが、たくさんの写真とわかりやすい説明が置いてあります。自然科学好きな三輪えり花としても、それを辿るだけでも楽しい。しかも向こう岸には桜!家々は低く、電線も目立たず、昔ながらの風景が広がっている素晴らしい場所です。
歩いて宿へ戻る時、「桜鮎」と幟が見えた。和菓子の店だ。鶴萬々堂。こ、これはもしかして父が昔、奈良出張の帰りに、ごくたま〜に買って帰ってきた、最高に美味しい鮎餅ではないか?いつもこれをお土産にして、とねだると、季節ものだから、とあまり買ってきてくれなかったのだ。以来、鮎餅を見つけると買うのだが、父が買ってきてくれたお土産ほど美味しいと思ったことがない。あれは、子供の頃の、美味しいものをよく知らない子供の舌の、ただの記憶に過ぎなかったのだろうか? で、ここの鮎餅を買ってみた。。。。はい、本物です!これです!これほど美味しい鮎餅は他にない!まさにこの味です。よかった、私の幻想ではなかった。おすすめです。五條市へ行ったら、まず、寄ってください。

夜は、蔵と提携している「五條源兵衛」というお店で食事。ここもまた、築300年の江戸時代からの古民家をレストランにしています。大部屋もありますが、夜は個室で、予約客のみ。オウナーシェフさんが自ら山へ入って採ってくる筍やキノコ、近隣の自然農法農家から仕入れるこの地域でしか取れないとっておきの野菜などで作る、ベジタリアンメニューです。お肉が欲しい人は、大和牛が、お魚欲しい人は和歌山の漁師さんから直接仕入れるお魚を、予約しておくことができます。落ち着いて楽しい食事でした。

明日はどこへ、とシェフに聞かれ、吉野の桜を見に行くつもりと答えると、朝5時で、と言われました。私としては7時ごろ起きて8時ごろ出発くらいでいいかな、と思っていたのですが、8時から車両通行止めになるそうです。その後、さらにスタッフさんが、朝日を撮ろうと思って2時に出発した年がありますが、もう山裾は長蛇の列でした、と恐ろしいことをおっしゃる。どうなることでしょう。

奇跡の全山満開 吉野山 千本桜 4月1日(金)

というわけで、3時起き、4時11分出発。電灯さえない真っ暗な夜明け前の道路を一台、ナビだけを頼りにドキドキしながら進む。あまりにも誰もいないのでこの道ではないのではないかとさえ思えてくる。途中で後ろに軽自動車がついたので、一緒かと思ったがこちらが右の山道へ入るところで相手は直進し、また一台になってしまった。右に曲がった道路はもう山道で、急坂で、一台限りはあまりに心細い。ナビはさらに急な山道(ヘアピンカーブの連続なのでそうとわかる)を指しているが、もう一本、やや緩やかなのがあったので、そちらを選ぶことにする。万一急坂で何かあっても何もわからない状況ではかなり危険だからだ。緩やかな道は、途中で踏切に出会う。右は下千本、中千本、と書いてある! やった、もうすぐ近くだ。左は踏切を超えて上千本と書いてある。一番上の花矢倉(はなやぐら)という展望台の駐車場を目指しているので、上千本へ向かう。そこには「車両侵入禁止」のバリアも準備されていたが、この時間帯は傍へ退けられていた。確かに朝8時からとそこに書いてある。昨日五條源兵衛で食事をしなかったら、そこでその話にならなかったら、その人たちが親切でなかったら、8時ごろ到着して「なななぜに」と慌てまくったことであろう。

広い緩やかな坂の両脇には巨大な吉野杉に囲まれていることがうっすら感じられる。ちなみ、ここまでもまだ私の一台きりである。たまになんとなく桜が道路に項垂れているような雰囲気も感じる。しばらく行くとまた細い山道に入った。すると、先の方にテイルランプが見える。2台。一台は自動販売機で飲み物を買っていた。私の車が近づくとすぐにそいつは発進し、細い山道を器用にスイスイ登っていった。あの運転は地元民だろう。私の後ろに、傍にいたもう一台がつく。ヘアピンカーブにはガードレールも何もついていない。どうせ前方にも車は一台だけだし、と焦らず、ゆっくり登る。そして、花矢倉展望台と書かれた立て看板を曲がると、なんとそこはもう車がびっしり!ままままじか〜っっっ! 展望台の先端、もう崖っぷちに僅かに空いていて、そこに止めていいものかどうか危ぶまれたが、注意されたら仕方ないと腹を括り、そこに恐々と駐車した。私の後ろの1台はもうどこにも入れず、仕方なく出ていった。到着5時11分。ここまででも大した冒険とワクワクドキドキであった。もう1日が終わった気がする。

まだ暗闇の中、少し目を凝らすと、展望台の先端(私の車は先端が船の穂先のように突き出ているとしたら、その左舷に駐車している。先端との間には、宴会用のテーブルの並べられた立ち入り禁止のスペースがあるのだ)には、人が集まっている。様子を見に行くと、三脚を所狭しの並べたカメラマンたちだ(女性含む)。何を撮ろうとしているのだろう。覗き込むと、谷間がぼうっと薄ら白い。ああ、桜か。これが吉野の桜なのか。私は全山桜を想像していたので、谷間にだけ桜が集中していることに少しがっかりした。そんな感想を持ったあたりからものの5分と経たないうちに、背後が明るくなってきた。朝日は背後から登るのだ。ああそれで、朝日を浴びる谷間のファーストライトを撮ろうというのだな。

徐々に白んでくる中で目を凝らすと私たちの立っている展望台の足元も全部桜。展望台の上も桜。展望台の入り口には見事は枝垂れ桜。左手の山々はほぼ吉野杉の森だ。桜の山である吉野山自体は案外狭いのだが、吉野杉は天川や十津川の方までずっと広がっているらしい。だんだん谷間が見えてきた。遠くにお寺の屋根が見える。金峰山寺だ。私の父方のおじ(父の義兄)は金峰山寺の館長を務め、そのあと三十三間堂の館長を務めている。そんなこともあり、金峰山寺と縁は深いのだ。さらに夜明けが近づいてくると、天候は曇りであることがわかった。花曇りというやつだ。少々残念だが、そもそもこの時期に桜が咲くなんて全く期待していなかったのに全山一気満開という奇跡のような運に恵まれたのだ、文句は言うまい。6時ごろ夜明けとなり、でも曇りなので、夜明けの感動が過ぎ去った後は、あまり変化も感じず、車の中で11時ごろまで仮眠した。8時半ごろ目を覚ますと、あれほどいた車はもうみな出ていってしまっていた。おそらく地元民かここに滞在してシャッターチャンスを狙う人たちが、この日の出の時間だけやってきて、あとは通行止めになる前に山を降りるか宿へ帰るのだろう。

さて行動開始。中千本まで降りて、食事してお寺を回りながら坂を戻り、時間があればさらに奥へ行くプラン。まずはこの展望台のすぐ右手にある吉野水分(吉野みくまり)神社へ。水分とは、分水嶺のこと。みくまり という発音は、水配り(みずくばり)からきているのではないかと私は考えている。この神社は大変古い作りで、御神殿は三つの社(やしろ)が連なっていて、一段高いところにある。手前には、豊臣秀忠が乗った輿(こし)が奉納されている。高野山で殺害される前に使ったものであろう。ただ置いてあるだけで朽ち果てるに任せてあるのが気になる。舞台演出家としてはこれらの建物の作りや細工、仕組みなどが、脳内財産となるのだ。では歩き出そう。

なんということのない坂道を少し下ると、大きなヘアピンカーブがあり、そこへ出ると、ワオ、一気に眼下は全て桜。なるほど、展望台からは見えないこちら側が桜なのか。すごいすごい。もうあとは、すごいという単語の羅列だけになるので、書くのさえ省きたくなる。急坂。帰りはこの坂を戻るのかと一瞬不安が過ぎる。でも眺めに夢中。真っ白い八重桜、ぼんぼりのように咲く桜。さくらという発音を「咲良」と書いて読ませる名前を持つ人を知っているが、元々はそれが語源かもしれぬ。上千本のあたりは全て坂だが、中千本エリアは、高野山のように台地状になっているのか、坂はかなり緩やか。茶店も多い。吉野葛の葛餅を紙コップに入れて歩き喰いをするのが流行っているらしい。コロナ禍から通常に戻せとのお達しが出てまだ2週間。お店側は人員確保が間に合わず、まだまだ座って食事をできる準備をしていないところも多い印象だ。1時間歩いて降りてきてもうすぐ12時、お昼時。座れるところは長蛇の列。先に金峯山寺を見てしまうことにした。

この時期、1年に一度だけ金峰山寺は秘仏である、巨大な青い三体の金剛蔵王大権現(金剛こんごう 蔵王ざおう 大権現だいごんげん)を公開している。これは私も初めて拝見。金峰山寺の巨大な壁面をいっぱいに使った巨大な蔵王権現。日本最大。見開いた眼球は光ってこちらを睨みつけ、ギャっと開いた指が諸悪を滅するエネルギーを放つ。12時から護摩も焚くのでご自由に護摩参拝席へもお越しくださいとのアナウンス。ワオ。ここは山伏の大事な本拠地の一つでもあるので、護摩焚も、それに合わせる音楽も素晴らしい!8拍子で威勢よく、踊り出しそうな気持ちの良いリズムがわずか1台の太鼓で奏でられていく。この秘仏公開は、ただ見るだけでなく、普段は入れない、お坊様専用のエリアに、2〜3名が入れる個室エリアが屏風で設えてあり、そこに入って好きなだけそこで瞑想・祈りをして良いのだ。すごい!これもまた、通常の桜シーズンに入ってしまったら混雑でどうしようもなかったかも知れぬが、今年は本当に恵まれている。宿も交通も予約してこなくてはならない遠方の人たちはほとんどが来週末を目指しているので、地元近辺の日帰り組で、しかも3月最後の金曜なので仕事をしている人たちはまだいないのだ。

次は南朝宮廷ともなった吉水神社へ。こここそが歌舞伎『義経千本桜』の舞台。「一目千本」と名付けられた展望台がある。中千本のエリアから上千本を正面に見渡せる。あの天辺にある赤い屋根が、今朝いた花矢倉だろう。いやはやこれほどの絶景とは。絶景は確かにたくさんあるのだが、桜という季節ものの絶景は、しかも全山同時満開はこれまでにも滅多になく、本当に奇跡の風景である。義経が静御前と別れた土地。これより先は女人禁制の修験道の土地なので別れざるを得なかったのだ。二人が隠れこもった部屋。弁慶だけがこっそり付き従い、追っ手に向かい、これより先へ入るならば俺と力比べをせよと言い、二本の釘をそこにあった岩に親指だけで食い込ませた。といわれる釘の刺さった岩がある。後醍醐天皇が逃げ延び、ここで本朝を開いた金の部屋。彼は弟によって位を奪われ、追われた。シェイクスピアにも弟によって位を奪われる話は『ハムレット』『お気に召すまま』など、たくさんある。当時でいえば叛逆。今で言えばテロによる政権交代。南朝の方が正統だとする考え方もある。足利尊氏との話し合いで、北と南と交代で天皇を出すことにしましょう、としたのに、約束を保護にしたのは北朝の方だ。後醍醐天皇の評価はいまだに別れる。弁慶の七つ道具、静御前が身につけた鎧、豊臣家の茶道具、もちろん後醍醐天皇の書など、国宝級のものが所狭しと、しかもあっけらかんと展示されている。良いのか?これが追われた者の受ける仕打ちか。複雑な思いを抱きながら、秀吉が花見をしたと言われる庭に出て、北闕門(ほっけつもん)で邪気払いの九字真法(くじしんぽう。これが山伏が「くじをきる」の謂れか!)をやってみた。他の観光客は覗き込むだけであったが、九字を切るのは大変に気持ちが良い。九文字を憶えて家でもやってみたいものだ。再び観光道路に戻り、ランチ。静亭で、一目千本の桜を見ながら、葛うどんと柿の葉寿司と葛餅。そして、上千本へ向けての行の様な登りスタート! ゆっくりゆっくり遂に制覇!花矢倉に戻りました。

花矢倉に着いた頃、橿原の友人が、こっちにいるなら石舞台の夜桜ライトアップをみませんか?と誘ってくれた。その前に金峯神社に行こうかと、その頃には花矢倉を埋めていたタクシー運転手に行き方を尋ねると、10人くらいで寄ってたかって説明してくれたうえ、金峯神社はまだ咲いてないし、見るものもないし、車は俺たちタクシーでいっぱいになってしまうから駐車場がいっぱいになるかもよ、それに神社まで結構歩くぜ、と言うので、あきらめてそのまま飛鳥へ降りることにした。みんな親切にいろいろ教えてくれて、本当に良い人たちばかりでありがたい。南奈良、大好き。

石舞台の夜桜は煌々と照る月との競演がこれまた素晴らしかった。一度見てみたいと思っていたものが、こうして一気に叶えられて実に幸せな旅である。

十津川 あの吊り橋 あの峠 4月1日(土)

9時起床、11時発で十津川へ。昔、大学生の頃、父が連れてきてくれた頃は、かろうじて当時の小さな日本車が一台通れる程度の幅しかない細い細い山道を何時間もかけて登ったのだが、いまはそうした旧道の脇を太い直線のトンネルで一気に駆け上がれるようになっている。おかげで十津川の名所谷是の吊り橋までわずか40分だ。ただし、十津川村で食べるところがあるか否か不明だったので、大塔村の道の駅で携帯食料(ま、お菓子だね)を仕入れておくが、到着してみると、吊り橋先に蕎麦屋があり、ちょうど駐車場も1台分あいたところだったので食事にする。ランチは量が多いと思ったが、ざるそば、おあげ、きのこの炊き込みご飯とペロリと平らげた。添加物なしの自然のなかで自然に育てられた素材で丁寧な料理。本来食事はこうあるべし

谷瀬の吊り橋。テレビ番組で紹介されて有名になってしまい、大勢が訪れるようになって、かなり頑強になったが、初めて父に連れてきてもらった時は、吊り橋の底板は、電車の線路のように横木で繋がっていた。その木の板の幅は20センチくらい。渡し幅は1メートルくらいと記憶している。一人ずつしか渡れない幅だ。しかも横木と横木の間がこれまた10センチほど空いていて、ガタガタしている。10センチなら足が落ちるはずはないのだが、そこからはるか眼下に十津川が轟々と音を立てて飛沫をあげて流れている。父がさっさと歩いて行く後ろが私は川の真上で足がすくみ、もう二進も三進も(にっちもさっちも)行かなくなって、揺れる吊り橋の縄に捕まっているのがやっと。命の危険を憶えたわけではないが、前にも後ろにも足が一歩も進まないというのはこういうことか、体験した出来事であった。そんな私の横をテケテケテケと音がしたかと思うと小さなバイクが通り過ぎていった。は?。。。バイクが大丈夫なんだよ。それにパパももう向こうへ渡り終わりかけている。大丈夫なはずだ。一呼吸すると足が動いた。そして無事に向こう岸へ渡り、帰りはウキウキと帰ってきたのだった。今の橋は横木ではなく、一間(いっけん)の長さの板が縦方向(つまり進行方向)を向いて、4枚並べて幅をとっている。向こうから来るのに2枚、こちらから行くのに2枚使えるわけだ。相変わらず橋には「一度に20人まで」のサインはあり、橋の手前と向こう岸には監視の人がいてくれる。橋の下にも網がある。そして上流にダムができたおかげで川の水量は減り、眼下の川は浅く澄んで、広い河畔では何台も車がとまり、テントを張り、今流行りのマイカーキャンピングをしているのが見える。吊り橋の上からだと川辺の人は5ミリくらいの大きさだ。

吊り橋を渡ったところに黒木御所(くろき ごしょ)跡という広場がある。後醍醐天皇の皇子、大塔宮(だいとう の みや)護良(もりよし)親王が逃げのびてきたところだ。その後500年後に天誅組もここに縁を得て決戦の場とした。奈良県知事が今年の春の選挙で日本維新の会から選ばれたが、そもそも明治維新を起こした最初の土地が五條だったことを思うと、「維新」という単語に夢とロマンと理想を感じる土地柄なのであろう。ちなみに天誅組になぜ十津川の武士(農民)たちが大勢参加したかというと、はるか伝説の時代、神武天皇の東征を十津川の村民がお守りしたからなのである。つまり日本の古代天皇がここに到着するのを助け、天下を取るのを支えたという自負心の非常に強い、天皇のための俺たちという気持ちを持っている。それで、江戸幕府を倒して天皇の時代の再来のときが来たと天誅組に参加したのだ。私の父は選挙活動で奈良を見てきたので、この話も父から聞いて、十津川村の人がこれほどの山奥から五條市まで降りてきて天誅組に参加した謎がやっと解けた。

黒木御所の後は、果無(はてなし)集落へ向かう。ここもテレビ番組で紹介されて有名になったところだ。私も存在は知っていたが地理的にも認識しておらず、今回はたまたま、十津川の村営ウェブサイトで、枝垂れ桜が満開で見事、と紹介されたので行ってみた。またも、え、この道であってる?と思いながら、ヘアピンカーブをぐんぐん登る。滝が落ちている清涼な場所のすぐ上に、このさき、駐車場ありません、と立札があり、そこに一台停められそうなスペースになっていたので、停める。ちょうど犬の散歩にきた車も停めていたので大丈夫であろう。行ってみると、あ、テレビ番組で見た、あそこか、とわかった。ここは十津川の山々の一つの山のてっぺんにある台地で、背後の丘を超えるともう和歌山。熊野への行き来に使う熊野古道のてっぺんなのだ。今まで四方を山に囲まれていたので、山々をみはるかして深呼吸がしたくなる。こうした思いや感覚は演技にも演出にも活かせるのだ。枝垂れ桜は見事であった。湧水を貯める水瓶には巨大な鯉が赤と黒と二尾も泳いでいた。

途中の道に設置してある木の樽はミツバチ用だ。十津川村の道の駅で、そのハチミツを買うことができる。この道は16時までしか通り抜けできない。なぜなら、一般農民のお家の庭先を通る仕組みになっているから、16時以降はプライベートとなる約束なのだ。古い熊野古道を行く人にお茶を出したり宿を提供したりした、この古道と同じくらい古い家なのであろう。十津川にはまだまだ面白いところがたくさんあるようだ。だが、急峻な山は日暮れが早い。暗い中、あの山道は景色も見られないしただ緊張するだけなので、ここで切り上げて山を降りる。ちょうど五條市の平野部に入ったところで日が落ちた。

大神神社 国宝十一面観音 たこ焼き 4月2日(日)

今日は東京へ帰る。飛行機は関西空港から18時半なので17時ごろ車を返却するつもりで動く。五條市の旧家見学で、父が世話になった木村篤太郎の生家をみる。蔵の宿「やなせ屋」の目の前に古着和服の店が空いていたので帯を買う。初日に見つけた「鶴萬々堂」の鮎餅やお煎餅をおみやげにたくさん買っておく。父も建設とバス路線への計画変更に関わったという鉄道の跡地を見る

天誅組の最初の(そして最後の)成功行動となった、五条の代官の首をとった、代官所後が、天誅組博物館になっている。いろいろわかる。庭では肉体派のおっちゃんたちが花見バーベキューをしていた。いいのか?いいのだな?いい町だな。

今日は三輪神社とその側の国宝十一面観音像のある聖林寺に行きたいので、高速道路近くまで行き、イタリアンを食べる。

久しぶりのお正月以外の三輪神社へ。参道がさらに整備工事中。人が多くて驚いた。それでもお正月よりも静かで参道の梢のざわめきや澄んだ空気に、初めて訪れた時のような神々しさを感じる。そういえば拝殿の奥にあるという独特の三輪鳥居を見てみたいと思い右手裏に出たら、神宝神社という末社があった。もちろん金運財宝の神です。梢の囁きが未来を約束してくださったぞよ。鳥居は見えない様になっている。ウェブサイトによると、年に数回、特別なツアーがあって神主さんが解説してくれるそうな。私の父は、もちろん行ったことがある、と言っていた。

そして、車でないと行けない聖林寺へ。三輪神社の麓のお寺にあった国宝十一面観音像、フェノロサが感動した像、あれを拝観。フェノロサのギフトである厨子があったのだが、見損ねた。観音像自体は、部屋自体が巨大な鉄製の金庫仕様になっているところに収められていて、ゆっくり明るく眺めることができた。それにしてもフェノロサが誉めなかったら国宝になっていただろうか? なんでも外人が褒めれば国宝になる。さもなければ明治の廃仏毀釈で簡単に捨てられていたはずなんだ。と複雑な思い。

16時に飛鳥を出発、17時に関空到着、車返却。たこ焼きを食べて羽田に戻り、今回の花の五條吉野飛鳥十津川の旅は完了しました。人と天気と運に恵まれた旅であった。


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