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今回の演出は、一切台本には書かれておらず、全て私の頭の中から湧気上がってきたものです。
しかし、「全く書かれていない」のではなく、表面的な字面では書かれていなくても、文章の奥深くに何か言いたいことがあって、それが演出家の脳に働きかけているというのが本当のところです。
台本が演出家の脳を刺激すると、演出が生まれます。
演出とはどういうものなのか、舞台写真の続きを紹介しながら少しお話ししますね。舞台写真撮影は全て渡辺格さんによるものです。
地上の劇場に降りてきたことに気づいて世界を明るくするところ
巻物になにが書いてあるかは、このキャラクターも知らず、そのテーマのタイトルを読み取ってから、それについて話す。そのような演出をつけました。
台本というものは、チェーホフやイプセンのように詳しく設定や小道具や動きが作家によって決められているものと、シェイクスピアのように演出家が自由に設定や小道具や動きを考えてよいものと、2種類あります。
この『さあ、未知の劇女の姿とともに』は、元々、作家がコロナ後の初の演劇祭の開催にあたり、その開幕のスピーチとして、読み上げた原稿なのです。
ですから、初めてこの台本を手にしたとき、私は、研究者の論文発表のように、スーツをきて、博物学的なスライドをたくさん用意して、TEDかAPPLEの商品発表のように、スライドを紹介する研究者が自分の原稿を読み上げる、という演出を思いつきました。
けれど、何度も読み返すうち、本来の演出家である私の想像力が、ありがたいことにどんどん刺激され、博物学の紹介以上のことができるのではないかと思い始めました。
そして、決め手になったのは、「私には見えます、劇場のそこここが自然を取り戻していく姿が」という文章でした。
コロナ禍で劇場が封鎖され、演劇の神が劇場に降りてくることができない。
ついに細々(ほそぼそ)とでも劇場が開くようになって、やっと降りてきた、打ちのめされた演劇の女神が、演劇の未来は必ずある、と伝えにきたイメージです。
さらに、「自然を取り戻す」からには、デジタルよりも完全にアナログというか、現代的技術を使わない古代の演劇と同じような形にすると良いのではないか、と思い至りました。
そこへ、数日前の記事でお伝えした「どうせリーディングなら、台本を手荷物のとは違う形で台本を舞台に出現させられないか」という思いが繋がって、
・降りてきた演劇の女神→女神の託宣→巻物
と魔法のように次々とイメージが現れてきたのです。
これが私の今回の演出です。
このように、台本に何も指定がない場合は、演出家はさまざまな可能性を追求することができます。
(イプセンやチェーホフ、岸田國士のように、確実にこれをこの設定で用意せよ、というものの場合は、見た目の奇抜さよりも、キャラクターの心理の山づくりで全てが決まるので、それもまた演出家にとっては難易度が高いのですが)
私以外の人がこの台本を演出したら、今回のとはまた、全く異なるものになっていたことでしょう。
演出はかくも面白いのです!
次回、さらにお写真をご紹介しますね。
演技や演出について勉強したいな、知りたいな、と思う人はよかったら私にお便りくださいね。
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