太田川源流の旅6最終回

2018年8月6日、原爆の日の広島へ。
『私は太田、広島の川』(2018年11月1日〜4日、池袋シアターグリーンでの上演)でタイトルになっている太田川の精霊を演じる三輪えり花は、太田川が語る、源流から河口までの旅路を実際にこの目で見ておく必要を強く感じ、8月6日の朝8時15分、平和記念式典に出たあと、太田川の相生橋(あいおいばし)へ向かいました。

相生橋から海の方向への眺めです。

「私は川の仕事に戻らなくちゃ。
瀬戸の海が私を待ってる。
逢いに行って来なくては」

朝早い時間帯は満ち潮でした。鏡のような水面で見事な美しさ。

式典のあいだに引き潮になりました。
大勢、川に落ち、あるいは水を求めて川に入り、あるいは火を避けるために川に入り、あるいは火傷を冷やすために川に入りました。
が、川自体が、2000度から4000度の熱線を受け、沸騰していたのです。

川を埋め尽くした負傷者と死者はこの引き潮で海へ運ばれていきました。

お昼を過ぎるとまた満ち潮に。
そのとき、川を覗き込むと、海鷂魚(エイ)の影が!

潮に乗って海から上がってきたのです。

みると、水面は上げ潮で逆流してどんどん海水が川を遡っていきます。

「上げ潮になって川の水が増し、流れが逆転すると、彼のシワと同じくらいオンボロの船で帰ってゆく、今度もまた、それほどの苦労もなしに」

太田川が語る、昭和の初めの船乗りたちが川と海の流れをうまく活用してのどかな日常を送っていたことがよくわかります。

相生橋は、太田川が分岐したところにかかる、珍しいTの字型をした橋で、上空からも目標にしやすかったのです。

すぐそばには東京から密かに移された大本営もありました。

有名な原爆ドーム、よくある写真の逆からの撮影です。

当時のレンガ壁。

建物の形を残すためと、建物自体の補強のために、破壊された部分もコンクリートで再建されています。

驚いたのは、そして報道の写真ではこれまで私には全くわからなかった新しい発見がこちら。

原爆ドームの中です。

ドームの麓も瓦礫が全部そのままで、もちろん生体関係・家具関係は運び出されているのですが、石類に関しては、全くと言っていいほど手付かずで破壊されたままになっており、かなり初期の頃から、原爆の傷は残しておかなくてはという意識があったのではないかと感じられます。

焼け焦げた石と内部、雨のシミなどに、ここだけ戦時のまま時が止まっています。

原爆ドームは爆心地と私は小学校で教わりましたが、その後の研究で、実際の爆心地はそこから23メートルのところにある、今は島内科医院のあるところだとわかっています。

このように、碑にはお花や折り鶴、水が備えられています。

この後、お昼から昨日アテンドしてくださった山口純子さんと佐々木愛さん。愛さんはダンサーでもあり女優でもあり、真摯にヒロシマの現実と未来に向き合っていて、感銘を受けました。

看板にTEHATERと書いてあります。
ここのカフェでは、被爆者のお話を聞けたり、政治の話ができます。

8月6日が原爆の日ですから、毎月6日の月命日には被爆者と、そして高齢の被爆者に変わって実話と体験記を継承していこうという「語り部の会」が開かれます。

「語り部」になるにはかなり研修を積み、様々な被爆者の中から、ある一人の体験を受け継ぐ「語り部」となる仕組みです。

私も折り鶴を折りました。
背後にいらっしゃるのは被爆者のお一人と、そのお話を聞きにきた人たちです。

そして午後は原爆資料館へ。

1枚目は、アインシュタインがルーズベルト大統領に、新型爆弾研究しませんか?という催促の手紙。

『私は太田、広島の川』の第2景で言及される手紙です。

アインシュタインは天才だろうし、そのおかげで今の宇宙開発もあるのはわかっているけれど、新型爆弾作りましょうよ、は酷すぎる。

2枚目は、ルースベルトとイギリス首相チャーチルの密約。

日本に使用しましょうよ、です。

3枚目は、原爆開発資金の問題です。

これも戯曲で言及されています。

20億ドルもかけたら、失敗は許されません。

失敗とは???

いいえ、成功とは?

こちらの方が答えるのは簡単です。つまり日本の大都市を壊滅させることでしょう。

開発にかかったお金の回収のために、どんどん殺戮という目的が強くなっていき、後には引けなくなっていくことがわかります。

4枚目は原爆投下司令書。

トルーマン大統領の直筆サインによって、運命が決まりました。

この時点ではまだ、どの都市になるか、候補は決まっていましたが、どれになるかは、天候次第でした。

5枚目は、原爆投下条件について

効果を最大限に高めるために、まだ空爆を受けていない健康な大都市でかつ欧米軍の捕虜収容所がないところが条件でした。

まだ空襲を受けていない都市・・・

効果を最大限に高めるため???

どこからどうやったらそんな考えができるのでしょう?

当時の科学者たちが、数字でしかものを考えていなかったことが手に取るようにわかります。既に彼らは人間ではなく、数字の奴隷になってしまっていたのです。

それを、国のため、という大義名分で正当化しました。

6枚目は米軍が持っていた、目標設定のための広島の地図です。

広島市を少し出るとわかるのですが、瀬戸内に面した土地は、山が一気に海に落ち込んでいて、ほとんど平坦で開けた土地がありません。つまり、広い農業には不向きなのです。(海に面した日本のほとんどの土地がそうとも言える)

けれど、広島市だけは、第一級河川の太田川が、山から土砂を運び、瀬戸内海は上げ潮で海からの栄養物を運びあげ、川の水と海の水がうまい具合にせめぎあって、見事なデルタ地帯を作り上げました。

赤い点線が引かれた目標地点に相生橋はあります。

私が宿泊したANAホテルはそのすぐ右下にあるのですが、この写真(1945年4月)の700年ほど前(平安から鎌倉時代頃)までは、そのあたりまでまるまる海だったそうです。それを示す神社が残っています。

こんなに豊かな広島が。

7枚目。原爆の「効果」です。

右の丸い同心円が出ているのが広島。

左の細長いのは長崎です。

長崎の方が爆弾の威力自体は大きかったのですが、迫る山々のおかげで被害を受けた地域は狭くなりましt。

が、広島は開けた土地のおかげで、爆風を遮るものがなく、山に接するまでひたすら被害が広がり続けた様子がわかります。

8枚目。現状。

2017年ノーベル平和賞が核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)に授与されました。被爆者のひとり、サーロー節子さんが講演し、日本以外の世界では大きな拍手と敬意を持って迎えられました。

ノーベル平和賞のメダル。

アメリカ合衆国オバマ大統領が、米大統領として初めて広島を訪問。

折り鶴をみずから折られ、手書きのメッセージを贈ってくれました。

アメリカ大統領として、広島原爆を肯定することは政治生命を立つのと同義でしたが、オバマ大統領は見事にやり遂げました。

広島では、高齢化した被爆者の記憶を、話だけではなく、絵でも記録しておこうと、被爆者の話を聞きながら、その絵を描き、被爆者に実際に見てもらってここはこんな色だった、ここはこんな風だった、と指摘してもらいながら、写真のように現実に近づけていく方法が広まっています。

写真はアメリカ軍が数日後に撮影したものが多く、「あの日」のものはほとんどありません。

ですから、被爆者の「あの日」の鮮明な映像を絵にして遺すのはほんとうに重要なことなのです。

今回、高校生たちがそうして描いた絵の展示会もあり、閉館ぎりぎりでかたづけていたところを無理を言って見せていただいたのですが、写真ではとても残せなかったであろう絵の数々が、凄まじい迫力でした。

爆心地にあった通勤電車の中でつり革に手をかけて立ったまま白骨化している絵、潰された馬、こうしてブログにも書く気持ちになれないものが・・・

被爆者たちはこれらの鮮明な絵とともに生きてこざるを得なかったことにもまた大きなショックを受けました。

たくさんの学びと、そして今生きている人々の暖かい愛に包まれて、帰京します。帰り際には再び後藤順子テューターが駆けつけてくださいました。

最後まで見送ってくださるお二人。ありがたいことです。

このお二人のアテンドがあったからこそ、美しい太田川も見られましたし、様々なお話が伺えて、だからこそ博物館で見るものにも理解が深まりました。本当にありがとうございます。

もちろん、広島の夜をご一緒した皆様にも。愛ちゃんにも。

飛行機に乗る前に生牡蠣を。

 

さて、三輪えり花、『私は太田、広島の川』

今日は本番です。

今回の旅で得たものをリアルに抱えて、役に臨みたいと思っております。

 

第5話はこちらのリンクから↓
http://elicamiwa.com/blog/2018/10/31/moi-ota-7/

第4話はこちらのリンクから↓

第3話はこちらのリンクから↓
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第2話はこちらのリンクから↓
http://elicamiwa.com/blog/2018/10/28/moi-ota-4/
第1話はこちらのリンクから↓
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