原稿を詠む、科白を言う。
何を喋るかと言うと、言葉です。
書かれている文字を音読するのではなく
その意味を伝える必要があります。
たとえば『ヴェニスの商人』でモロッコの王子がポーシャの箱選びのときに、鉛の箱の文言を吟味して言うせりふがあります。
“Men that hazard all
Do it in hope of fair advantages.”
「全てを危険に晒すのは、それに見合う見返りを期待してのことだ」
これ、音読は誰にでもできます。
せいぜい「晒す」という漢字を読めるかどうかがポイントになるだけでしょう。
「さらす」です。
ふりがなをふったら、
あとは、
「すべてをきけんにさらすのはそれにみあうみかえりをきたいしてのことだ」
と、発音するだけの人が多すぎます。
もしもあなたが自分の全てを危険に晒すかどうかを考える時、「すべて」と一言、言っただけで、いろいろなものを思い浮かべませんか?
・・・両親、パートナー、仕事、家、お金・・・
「すべて」という音を発音しているだけではないことがわかりますか?
せりふ、あるいは原稿を元にして喋る時、あなたに取って実に個人的な要素が、一つ一つの言葉に於いて実感として感じられる、それが必要なのです。
【今日のライブインタラクション】
今日の科白を、自分にとって個人的な意味を思い描きながら、言ってみましょう。
あなたにとっての「すべて」とは?
あなたにとっての「それに見合う見返り」とは?
あなたにとっての「危険」とは?
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